かぐらむら

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今月の特集自由自在な視点から見た“私の神楽坂”

脇道から眺めた神楽坂

行こか戻ろかオーロラの下を

―芸術倶楽部、跡―

photo島村抱月とモジリアーニ。何の脈絡もない二人かと思われるが、私の中では多くの共通点をもってつながっている。二人の幼少年時代、父親は、ともに事業に失敗、貧窮のどん底に近い暮らしをしいられていた。青年期には、志を抱いてパリや東京に上京。故郷には、彼等の才能を理解し支援した家族や後援者がいた。二人の分野は、演劇と絵画と異なるが、伝統とモダンの二つの様式の葛藤と闘いつつ、新しいスタイルの芸術を拓こうとしていた。にもかかわらず、道半ばにして肺炎で逝ってしまった(抱月47歳、モジリアーニ36歳)。そして抱月の後は、女優松井須磨子が、モジリアーニの後は、画学生ジャンヌ・エビュテルヌが後追い自殺をしていること。

松井須磨子が、牛込横寺町の芸術倶楽部で縊死をとげたのは、1919年1月5日。エビュテルヌが両親のアパートの窓から身を投げたのは、1920年1月25日。彼女は約7カ月の身重であった。抱月とモジリアーニの活動した地は、神楽坂とモンマルトルや、モンパルナス。ともに坂と路地のある文人や画家が多く住む街。知れば知るほど、この二人を結ぶ琴線は、時代の激しい音色を奏でている。

photoその根源にあるものを探っていくと、それは「1910年代から1920年代に起きた芸術と生活の亀裂」ではないかと思う。二人が没する2、3年前にはロシアで十月革命が勃発し、ソビエト連邦が成立。革命は芸術の分野においても、来るべき未来を模索して動乱期を迎えていたのだ。新劇からは、「人形の家」のノラや「復活」のカチューシャが現れ、大正時代の女性達は、これを熱烈に歓迎した。抱月は妻と7人の子どもがあったが、新劇と松井須磨子の世界に全力を注ぎ、結果、大学教授の職も辞し、故郷の恩人の期待も裏切ることとなった。モジリアーニは、画家としての「成功」を目前にしていたが、正当に理解されず、苦悩し、神経衰弱と精神錯乱の日々。死ぬ数週間前、彼は酔いつぶれ、ずぶぬれになってパリの街角を彷徨していたという。
真夏の白昼、横寺町の路地に立てられた「芸術倶楽部、跡」の標識板を読みながら「芸術と生活の亀裂」の時代は、苦悩と錯乱に彩られてはいたが、大正ロマンと呼ばれるこの時を知ることは、昭和の繁栄につづく神楽坂の根っこに触れることにもなるだろうか。(長岡弘志)

*「♪行こか戻ろかオーロラの下を」は、芸術座公演『生ける屍』主題歌