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今月の特集神楽坂での記憶と記録

シウォルサランバン−神楽坂のお客さん−

父の思い出と共に

石井要吉(助六店主)

photo私の父は大正2(1913)年3月、神楽坂で生まれました。
10歳の時、関東対震災がありました。幸い神楽坂は地盤が固かったせいか、家屋の倒壊、火災の発生も無く、地震による被害は殆ど無かった様です。他方、下町では甚大な被害があり、娯楽を求める人々は夜な夜な神楽坂にやってくるようになったと父は言っておりました。
神楽坂が神楽坂であった時代(1910〜1930年代)、神楽坂では夕刻になると毎夜露店がひしめき、演芸場、寄席、映画館には人が押し寄せ、表通りから一歩路地に入ると料亭に向かうお客、芸者衆が行き変わっていました。その後、昭和10年代(1935)になると戦時色の色合いが濃くなり、日本は第二次世界大戦へ突入して行きました。

昭和20(1945)年5月下旬、神楽坂は米軍のB29による空襲を受けました。
郊外からもっとって来た祖父と父は外堀通りから神楽坂の方を見上げました。丁度、我が家の辺りから火の手が上がっているのを見たそうです。そこで二人は急いで店に飛び込み、家宝にしているレジスターをリヤカーに乗せて火の海の中を夢中で逃れました。
その3ヶ月後、日本は終戦を迎えました。一面焼け野原の神楽坂。戦後の神楽坂はそこから出発しました。

それから63年の歳月が流れました。その間、昭和40〜50(1965〜1985頃)年代にかけて父は地元神楽坂の商店会長を務めました。父が青春時代を送った「神楽坂が神楽坂であった」あの繁栄の日々の復活を求めて……。昨年のテレビドラマの放映もあってか、昨今の神楽坂は人で溢れています。
昔の神楽坂を知る人は、神楽坂は変わってしまったと嘆きます。
しかし、表通りから一歩裏に入ると石畳の路地があり昔日の面影が感じられます。そして助六の店の奥には、祖父と父が命からがら持ち出したあのレジスターがいまも大事に置かれています。今年6月中旬に95歳で亡くなった父の思い出と共に……。
(写真:助六の店の奥にあるレジスター)