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今月の特集戦前、神楽坂にあった洋菓子店をもう一度…

神楽坂 紅谷の想い出

山の手一のお菓子屋

 

山の手一のお菓子屋
戦災でなくなってしまったけれど、昔、神楽坂に山の手一と言われたお菓子屋さん「紅谷」があった。紅谷の本店は江戸から続く小石川安藤坂の一流菓子店。明治24年に神楽坂に支店を出した。山形から上京して、麻布飯倉風月堂で修行をしていた「小川茂七」が、神楽坂紅谷に婿入りしたのが明治30年。茂七は、日露戦争後の満韓旅行、明治41年の日本人初の朝日新聞社主催、世界一周団体旅行に参加して見聞、人脈を広げた。この世界一周の参加者は政治家、大商人、教育者などで構成され、野村証券を作った野村徳七など、大金持ちの大阪の株式仲買人も複数参加。旅行後も活発な交遊を続けている。大正10年には、地下1階地上3階の白亜のビルを建て、隣のパーラーと共に文人、演劇、映画界、ハイカラ学生達のたまり場になる。そして三越に洋菓子を納め、慶應病院のパンを焼き、紅谷は都下の高額所得者となった。

photoお菓子カタログ
チョコレートのお菓子の家、籠に入ったキャンディーやビスケット、バラの花飾りのデコレーションケーキ、どれもこれも今から70年以上前に神楽坂で売られていたものだ。紅谷では、お店にお菓子を並べず注文があると奥から持って来るというスタイルだったそうだ。おつかいもの専用で、子供の口になんか入らなかった、と昔を知る人は一様に語る。

photo小石川の紅谷本店
創業嘉永2年(昭和45年頃廃業)隣が小石川三井本家の広大なお屋敷、2軒先は明治期のセレブを集めた中島歌子の歌塾「萩の舍」だった。徳川慶喜宅にも納めた上流階級向けの菓子商である。虎屋、榮太樓、紅谷本店、ランペルマイユ和泉家の旦那衆は大の仲良しだったという。(小石川和生菓子組合百年誌)