かぐらむら

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今月の特集戦前、神楽坂にあった洋菓子店をもう一度…

神楽坂 紅谷の想い出

小川茂七の残したもの

 

photo菓子パンフレット(8.5cm×18.3cm/戦前)
明治42年3月の夏目漱石日記に、ベルリン大学に留学する寺田寅彦に餞別を贈った翌日「寺田夫人が紅谷の唐饅頭を持って来てくれた」との記述がある。漱石の時代は、道も舗装されず紅谷も昔ながらの建物だった。

photo小川茂七の残したもの
紅谷はなくなってしまったけれど、小川茂七は色々なものを残した。ひとつは洋菓子会の人材。戦後の有名店の多くは神楽坂紅谷出身者だ。宮内省大膳職菓子主任になった弟子もいる。茂七は、積極的にミキサーやローラーを輸入し研究したという。今の洋菓子界の発展の蔭で、神楽坂紅谷が果たした役割はとても大きい。もう一つが、山形梅月堂ビル(現・梅月館)だ。茂七は山形市小姓町の出身だが、立地の重要性に注目して早くからこの土地を購入していた。昭和11年、仙山線開通に伴って山形市は商敵仙台に打ち勝つべく、七日町角の梅月堂の動きに期待した。おそらく、実家の梅月堂に相談されたに違いない。茂七は持てる人脈のすべてを使ったことだろう。当時、超売れっ子の新進気鋭の近代建築家「山口文象」に梅月堂ビルを建築依頼。土蔵作りの街並が続く七日町に、突如近代建築が現れ、完成から3日間は松竹の売れっ子映画女優、男優が店頭に立ちサインを配り、山形市の芸子衆が踊りを披露し、ブラジル珈琲のコンパニオンが珈琲煎れの実演をし、梅月堂で食事をするのが憧れという町の文化を作り出した。梅月堂はすでに廃業しているが、ビルは残っておりこのたび地元の熱心な建築家達の運動により DOCOMOMO JAPAN に登録された。山形では「梅月堂には神楽坂がついているから」と噂していたと言う。
(写真:山形梅月堂ビル)

「神楽坂紅谷」の資料集めは、まだまだ続いています。もし「紅谷」についてなにかご存知の方がありましたら本誌「かぐらむら」編集室までお知らせください。