かぐらむら

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今月の特集第2部 戦前編

記憶の中の神楽坂

神楽坂下の風景

飯田橋界隈/神楽坂下/熊公焼き

photo飯田橋界隈(大正時代/絵はがき〈個人所蔵〉)
複雑な地形で判り辛いが、左横の鉄橋が飯田橋である。市電外濠線が走っている。市電が停車している橋は、神田川に架かかる船河原橋である。斜め上方に延びている道路は現在の大久保通りで、九段下から江戸川橋方面に行く市電が通っていた。通り沿い右奥の白い瀟洒な建物は、下宮比町1番地の吾妻医院という個人病院である。大正12年に売りに出されていたのを、関東大震災で九段下の至誠医院を失った吉岡弥生が購入し、至誠病院として多くの患者を集めたが、昭和20年4月14日空襲で全焼した。その後、東京厚生年金病院となり今日に至っている。
左上、ひときわ大きな灰色の屋根が、津久戸小学校である。この写真が撮られたのは(推測だが)自転車や人力車の様子から、大正の中期〜後期ではないか。車両の前後がデッキ型の市電は、明治36年〜44年に製造された。夏目漱石はじめ神楽坂を訪れた当時の文化人達が利用したのがこの車両である。1枚の絵はがきによって、古き飯田橋の「日常の一瞬」を垣間見ることができる。

photo神楽坂下(昭和5年/『牛込区史』〈個人蔵〉)
昭和5年の神楽坂下から見た神楽坂。右角に赤井足袋店が見える。左側は壽徳庵という和菓子屋で、2階が喫茶になっていた。区史の解説に「両側の店舗は落ち着きを見せ、そこに一点の情味さえ漂わせ神楽坂特有の気分がみなぎっている處、山の手方面には他にその類例がない」と記されている。

photo熊公焼き(『製菓実験』昭和12年8月号〈国立国会図書館蔵〉)
戦前の神楽坂といえば、必ず話題になるのが「熊公焼き」だ。熊公の顔が、当時の有名な凶悪犯罪者に似ていた、という噂もある。残念ながら写真の「熊公」は、忙しく立ち動いていて顔がはっきりしない。熊公がいつから、夜店に出ていたのかは判らないが、昭和12年夏の時点で「新聞などにも度々出て、かなり有名な神楽坂の熊公と、その唯一の商品である都巻。鉄板の上に薬の利いた中華種を四角な回転式の四ツに区切った鉄板で焼き、棒にした餡を巻いたもの。一個40匁平均(150グラム)で1つ5銭」と紹介されている。