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今月の特集日本で初めて俳優学校をつくった男

藤澤浅二郎と東京俳優学校

「牛込藁店亭」と都々逸坊扇歌

 

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「牛込藁店亭」と都々逸坊扇歌

江戸で最初に出来た寄席は、寛政10年(1798)、櫛職人の可楽が、下谷神社境内に開いたとされている。和良店亭の設立時期は判っていないが、文政8年(1825)8月には、「牛込藁店亭」で都々逸坊扇歌が初看板を挙げ、美声の都々逸に加え、冴えた謎かけを披露し、以後一世を風靡しており、天保年間には「わら新」で、義太夫の興行が行われたという。明治を迎えると、「藁店・笑楽亭」と名前を変えて色物席となる。明治21年頃、娘義太夫の大看板である竹本小住が席亭になり、24年に改築し「和良店亭」とした。
小住の夫、佐藤康之助は、娘浄瑠璃の取り巻き「どうする連」の親玉だったと伝えられる。旧水戸藩御用達で六十二銀行を設立した佐藤巌の長男として、商法講習所(現:一橋大学)で学ぶが、親の銀行を数年で辞め、その後、どうにも腰が落ち着かない。ついに、親が根負けして名流の寄席を持たせ小住との生活を黙認したようにも思える。

洋風二階建ての「牛込高等演芸館」

明治37〜8年にはアメリカに遊学し、帰国後の39年暮れ、洋風二階建ての本格的な舞台を備えた「牛込高等演芸館」を新築した。地下に食堂を作り「セラ」という洋食屋を設け、翌年1月には盛大な開館式を行った。今でこそ、食堂の設置は常識だが、まだ、芝居といえば「お茶屋」を通して、という時代だったので人々の目には奇異に写ったという。
藤澤のこころざしを知った佐藤は、演芸館を破格の条件で提供することを申し出た。

藤澤浅二郎の生い立ち

慶応2年(1866)に京都市の紙問屋に生まれ、幼少に父を失い、母一人子一人で育つ。頼三陽の弟子、宮原易安の下で漢学を学び、和歌も読んだ。家の都合で府立中学を中退。上京して呉服問屋に奉公したが店の倒産で、修行半ばに帰郷した。平民新聞、東雲新聞で記者をしながら気焔を上げるうちに、川上音二郎と意気投合する。
(写真/藤沢浅二郎肖像写真『演芸画報 明治41年4月号』)