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今月の特集日本で初めて俳優学校をつくった男

藤澤浅二郎と東京俳優学校

壮士芝居から役者へ

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壮士芝居から役者へ

やがて「オッペケペー節」の川上を中心に、壮士芝居の一座を組むと人気が沸騰した。藤澤の書いた脚本は次々に当たり、一座は、上京して東京を活動拠点とする。豪放磊落、自由奔放で度々失踪事件を起こす川上を、副座長として良く支えた。役者としても人気があり、当たり役の一つに金色夜叉の貫一がある。
明治34年4月〜35年8月まで、欧州巡業に同行し、69の市街、78劇場で休む間もなく興行を行った。帰国後は、時代の過渡期の日本で新しい芝居を興行する難しさを承知しながらも、「頭の訓練を受けた俳優育成」の重要性を繰り返し訴えた。

清国留学生劇の成功

明治40年6月、本郷座で藤澤の指導による、清国留学生演劇愛好者によって組織された「春柳社」による翻訳劇「黒奴吁天録」(アンクルトムの小屋)が上演され、大成功を収めた。この舞台は、藤澤に私淑し脚本、監督、演技、演劇理論を熱心に学んだ陸鏡若(東京大学哲学科)が中心となり、舞台背景、衣装、化粧、小道具、音楽効果などを入念に研究し、娯楽としての演劇ではなく、作者、演出者のメッセージを伝え、考えさせ、何かを観客の心に残すという近代的な舞台を目指して成功したのであった。
この経験は、藤澤に自らの指導方法の手応えを感じさせたに違いない。そして、世の捨て石となる覚悟で、私財を投出し俳優養成所を設立することに着手した。9月に川上貞奴が、帝国女優養成所を開設したため、藤澤は、男優志願者だけを対象とした。

東京俳優学校の開設

当初は、西五軒町34番地の宏文学院跡での開校を考えていたが、舞台がないのが懸案だった。佐藤の厚意で、牛込高等演芸館の寄席の時間外を借り切る事になり、準備は順調に進められた。舞台は、間口4間奥行き3間ほどで、広い客席、桟敷付き2階とそれに続く大広間が2部屋。電話も自由に使わせて、舞台裏手奥に中2階の教室も新築してくれた。毎月の家賃は36円だった。生徒の終業年数は3カ年で、入学金5円、月謝は3円である。俳優養成所としてスタートしたが、明治43年3月に「私立東京俳優学校」に改称し、東京市の認可を得た。
(写真/わらだな 明治39年頃『東京名所図絵:牛込区の部上』)