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今月の特集日本で初めて俳優学校をつくった男

藤澤浅二郎と東京俳優学校

入学前後の様子

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入学前後の様子

生徒募集の反響は、予想以上に大きく、入学希望者は250名に上った。志願者は、湯島の藤澤邸で面談を受け、11月4日、選抜された35名に対して入学試験が行われた。午前中に学科:倫理、国学、英語又はドイツ語、午後は、実科:表情、しぐさ、台詞廻し、舞台度胸、役どころ、礼儀作法などが、当代一流の先生が並ぶ中で行われた。体格検査では、俳人としても有名な築地の大野院長により、尿検査も行われ最終合格者は23名であった。
授業は11月11日から始まり、28日には客席を使って開所式が行われた。顧問の巌谷小波、新派の大御所や劇壇、文壇、劇評家達がずらりと並び、帝劇、有楽座、本郷座の幹部や、牛込区長、神楽坂警察署長も出席した。
制帽も作られた。日本画講師の久保田金遷画伯のデザインで、競馬の騎手がかぶるような形の濃いコバルト色のビロード製、左横には白い大きな羽が差してあった。3円50銭、三越製。生徒の服装は、着物に袴が主流だったので、かぶって歩くのは大変に気が引けたという。

授業の内容と生徒達

毎日、一日7時間、びっしりと行われた。学科は午前中で、倫理学、脚本解説、芸術概論、心理学(衣装や扮装の心理)音楽の心理、日本風俗史、有職故事、日本歴史(講師は前澤誠助:松井須磨子の二番目の夫)英語、フランス語。午後は実科で、藤澤による劇術、日本舞踊と扮装術(市川高麗蔵が、ロンドンから取り寄せたクラークソンの化粧箱を持って来て、英語まじりで化粧やヒゲのつけ方などを教えた)長唄(吉住小三郎)声楽(北村季晴、初子)清元(八木満寿女)義太夫(竹本小住)洋画(北蓮蔵)日本画であった。
新派の俳優達よりもむしろ歌舞伎界が熱心で、市川高麗蔵後(7代目松本幸四郎)は弟子の市川麗重(藤間勘四郎)をお伴に踊りを教えに来た。最初は、藤間流の手ほどきの「槍踊」だった。客席に23人の生徒が竹の六尺棒を持って三列に並び中川三平の唄と三味線に合わせて師匠の振りを見ながら真似て踊るのだが、或る者は泳ぐが如く、或る者は泥鰌を踏むが如く、或る者は壁を塗る如く、かまきりの如く、百姓一揆の老爺の如くで、三平氏は、おかしくて三味線が弾けなくなってしまったという。各界から一流の講師陣が金銭を度外視して熱心に献身的に教えに来た。

赤字、そして閉校

生徒が30人程度で、月100円にも満たない収入では、家賃と講師陣の車代、事務費を出す事など、とうてい不可能だった。藤澤は、不足を補うために活動写真に出演して毎月100円を学校に入れた。当時、活動写真に出る事は「泥の上で芝居をする」として、舞台俳優からいやがられ、一度活動写真に出た者は再び舞台に立つ事は許されなかったが、藤澤だけは同情をもって許された。映画だけでは足りないので、舞台や巡業に休む間も無くなり、学校に顔を出す機会も減っていった。
俳優学校の教師として1年程雇われた川村花菱は、冬に炭が無く寒い思いをした事、毎月7円の給与をついに貰わなかった事、川村が辞める時、藤澤が、竹内栖鳳の藤の花の屏風を届けて「長い間、お車代も上げず、失礼を重ねていましたが、なんとしても今、私に金がない。これで、あなたの今日までの苦労をねぎらいたいと思います。」と、言った事などを書き残している。
第1期生の卒業公演は明治44年6月23日から3日間有楽座で行われた。1期生は牛込高等演芸館で通算試演7回、有楽座で公演2回を行い7月に卒業したが式は、藤澤が関西公演中のために行われなかった。卒業生11人のうち、新派に進んだのは岩田祐吉一人で、諸口十九、田中栄三をはじめ後の者は、小山内薫や升本清の影響を受け、新劇や映画界に進んだ。退学処分になった上山草人は、後にハリウッドで成功を収めている。
第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった。
(写真/俳優養成所入学式 『日本新劇史:新劇貧乏物語』松本克平)