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今月の特集日本で初めて俳優学校をつくった男

藤澤浅二郎と東京俳優学校

藤澤浅二郎の死

 

藤澤浅二郎の死

大正3年4月、川上貞奴と明治座に出演中、過労がたたった藤澤は、脳に異常を来した。舞台の上で、突然、訳の判らない事を話し始めたと言う。夏には復帰したが、再度倒れ廃業した。京橋で乙卯堂という売薬化粧品店を出したが上手く行かなかった。日活の撮影監督を務めたという話もあるが、財産を無くしたことを気にする様子はなく括談としていたという。
大正6年3月3日、今戸の小さな家で息を引き取り、青山墓地に葬られた。享年満50歳。その様子を、松居松葉翁が「劇壇今昔」に「藤澤の今度の葬式も芸人らしくない、清い、美しい涙の弔であった。一生をじみに清らかに送った彼は、例の目尻の下の愛嬌皺を一層深くして微笑した事であろうと思う」と、記している。歳若き一人息子は、父の病が重い事を悟ると、かつての父の様に、自ら慶應中等科を辞めて、三越の小僧に応募した。その後の消息は知れないが、父に似た優しい子供であったという。

藤澤浅二郎の業績

(1)日本で初めての俳優学校を設立した。専門の教育を受けた俳優を排出しただけでなく、指導に当たった講師達にとっても、貴重な経験となったはずである。
(2)春柳社の本郷座講演後、その反響はすぐに清国国内で様々な形で現れて、中国話劇の先達と手本になった。清国に新演劇を広めるきっかけを作った。
(3)日活、吉沢商会など、映画界でも指導に当たり、やがて隆盛を迎える映画界を支える役割を果たした。
明治40年代には、近代教育を受けたいわゆる「学校出」が、主流になっていく。帝国女優養成所を作った、川上音二郎、貞奴夫妻は、福澤桃介、伊藤博文、澁澤栄一などの権力者に力を借りたし、文芸協会の坪内逍遥は、偉大な学者であり、大早稲田がついていた。藤澤浅二郎は、前述の通り学問も半ばで壮士芝居から世に出た人である。けれども、人柄が優れ、学識があることは、人の知るところだった。学校を始めると、実に多彩な人たちが集まって、授業を受け持っていることがその現れである。
政治的ではない為に財力に乏しい彼が、学校を設立できた大きな要因、それは、佐藤康之助の「牛込高等演芸館」の建設であり、提供であった。袋町3番地には、現在、リバティハウスとセンタービルの2つの建物が建てられている。

参考文献
『日本の古典芸能』第9巻 寄席 芸能史研究会:編 平凡社
『寄席切絵図』六代目三遊亭円生 青蛙房
『神楽坂まちの手帖』9号 わら店亭のナゾ 吉田章一 けやき舎
『牛込藁店亭と都々逸坊扇歌』一瀬幸三 新宿郷土会
『松井須磨子 芸術座盛衰記』川村花菱 青蛙房
『新劇その昔』田中栄三 文芸春秋社
『劇壇今昔』松井松翁 中央美術社
『文明戯研究 春柳社百年記念国際シンポジウム論文集』東方書店
『女優貞奴』山口玲子 朝日新聞社
『東京俳優学校設置許可書類一式』東京都公文書館