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今月の特集江戸中の町はこの話題で持ち切りに――

神楽坂、行元寺境内での百姓による仇討事件

事件発端からの顛末

冨吉と甚内

photo明和4年(1767)、下総国相馬郡早尾村(現茨城県北相馬郡利根町)に住む百姓庄蔵が、同じ村の組頭甚内と口論になり、激しい暴行を受けた百姓は死亡した。しかしながら上意、御上による裁定では酒の上のことと見なされて喧嘩両成敗。僧侶となって庄蔵の菩提を弔うべき義務を放棄したまま出奔した甚内に対し、庄蔵の12歳の倅、冨吉は仇討を決意。田畠を弟に譲り敵を追って、その潜伏先と見られる江戸へ向かう。

敵にはなかなか出遭えないまま一心に剣術の稽古に励んだ後、あるとき神楽坂路上でふと甚内を見かけたが、このときはこれを見失ってしまう。必ず再び近辺に現われると信じた冨吉は、脇差を腰に翌日より牛込界隈を探し続ける。
神楽坂肴町にて遂に甚内を見つけた冨吉は自らを名乗り、「親の敵、抜け」と迫る。「知らぬ」と言いつつ甚内は冨吉に向かって不意に斬りつけたが、冨吉の居合いの太刀先は鋭くこれを撥ね返す。あわてて近くの参道から行元寺境内へ逃げ込む敵を追った冨吉は、真っ向から一太刀浴びせて本懐を遂げる。このとき冨吉29歳、甚内は50歳になっていた。臥薪嘗胆の17年の後ということになる。

photo奉行所の取調べの後、冨吉は農民の出ではあるが親に孝を尽くした立派な行いであったと仇討が認められ、旗本に召し抱えられた大崎冨吉は百石取りの侍となった。
(写真上:東京市牛込全図(明治40年/行元寺移転前)、写真下:神楽坂5丁目 行元寺参道入口跡(冨吉が逃げる甚内を追ったと思われる))