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今月の特集江戸中の町はこの話題で持ち切りに――

神楽坂、行元寺境内での百姓による仇討事件

幕府の管理下にあった「仇討」

全ては手続きを踏んでから

事件のあらましは記述のようであるが、この背景には当時封建制度下にあった江戸時代の実情が見て取れる。儒教の教えを基本に、主従の身分制度とその結び付きをより強固なものにしようという幕政上の方針から、幕府が仇討を法制化して管理していた。つまりその頃の「仇討」というのは、正式な手続きを経て公儀から認められたものであり、それにはいくつかの決まり事があった。

その条件として先ず、仇討を行う本人が武士であること、次には討たれた主(ぬし)が主従関係の目上の者か、仇討人の尊属に限ることなどが定められていた。そして仇討を望む場合は、先ず願書(ねがいしょ)を作成して町奉行所かまたはそれぞれの藩主に提出をする→願書は幕府へと届けられる→幕府は仇討一件としてその姓名・年齢とともに登録をする→その後に手続き完了の知らせが届く……という手順を踏んで、以上が終了の後はいつ、どこにても仇討が認められることとなった。仇討の後は役人の取調べがあるが、手続きの書類を見せて不備がなければ、それにて一件は落着とされた。

これによれば、「忠臣蔵」で有名な「吉良邸討入」は、浪士たちは確かに武士の身分だが、「公儀の許可」を得ないままの行動であった。従って「正式に認められた仇討」ではなく、殺傷事件として裁かれたことになる。
まして侍身分ではない冨吉の場合、親の敵である甚内に遺恨ありとしても、本来は単なる意趣返しと見なされ、幕府から認められるものではなかった。百姓出身の男が「仇討」を果した第1号とされる由縁である。
その後明治6年(1873)になると、武力による私的な報復行為は近代国家にそぐわない……との理由で、仇討禁止令が新政府から公布される。さらに明治13年(1880)には、“仇討”についての条文も法典から消え、通常の殺人罪として扱われることに改められる。