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今月の特集未来の神楽坂へ、伝え残しておきたい

無形の文化財

「神楽坂の東八拳」途絶えそうになった神楽坂の東八拳を守るために三代目を襲名

 

photo稗田さんが、東八拳と出合ったのは、昭和10年頃。神楽坂の置屋にあがってからのことで、当時東八拳は、踊りや長唄と同じように身につけておきたい芸事の一つでした。稗田さんは、料亭「喜多川」の女将モトさんの父親に東八拳を習うことになったのです。彼女の父親は、明治時代に東八拳の東水舎派を興した初代家元でした。もう一人の師匠は、久保田孫一さんといって、古い文献を調べて「健全娯楽・東八拳道」という本まで自費で出版した趣味のいい旦那衆の一人。この二人の東八拳の師匠には、それは厳しく鍛えられたといいます。その教えは、「まずきれいに打つ、それから勝つこと、そして楽しくなければいけない」でした。勝負事であれ、勝者が敗者を不快にするような勝ち方は、粋でないと教えらたのです。稗田さんは、「筋がよい」と見込まれ、二人の良き師匠の指導のおかげで、戦前神楽坂を代表する東八拳の拳士に成長。他流試合に出かけたり、兵隊さんの慰問にでかけたりしました。

戦後になって、稗田さんは、昭和35年に神楽坂で割烹を開店。女将として働くと忙しさのあまり東八拳とは遠ざかってしまいました。時代の変化もあり、神楽坂の東八拳は、誰も継ぐ者がいなかったのです。ところが、平成7年、稗田さんが割烹の店を閉めた頃に、東八拳の弟子になりたいという人が現われたのです。その時はじめて稗田さんは、東八拳を伝え守ることの大切さを思い知ったと言います。初代から伝わる軍配を、二代目モトさんが亡くなる直前に渡されていたものの、当時は形見の一つとしか考えていませんでした。その軍配を託された意味をはじめて思い、稗田さんは、三代目を継ぐことを決意。東水舎の土俵を新しくつくるために、国技館の土俵と伊勢内宮の屋根を宮大工と一緒に見に行ったり、襲名披露のために東奔西走して、平成10年に三代目東水舎東八を襲名しました。

現在、東京には東水舎のような東八拳の家元が10団体ほどあり、睦(むつみ)会という会を組織運営しています。毎年6月には、星取りのための大会が催され、その勝敗にのっとって大相撲のような番付が11月に披露されます。各流派の拳士は、番付表を楽しみに練習に励んでいます。神楽坂の東八拳も、毎週土曜日の午後に、三代目家元の稗田さん宅に集まって、親睦を重ねながら、練習を楽しんでいます。無形の文化財は、その技や芸を伝え、守ろうとする人がいなければ消えてしまします。新宿区により二つの無形の文化財が認められたこと、これを良き機会としてますます神楽坂の多くの無形の文化が発展していくことを願っています。